新しい国創りをはじめよう

現在の日本が置かれている状況を簡単に整理しつつ、「僕ら若い世代はいかに振舞っていくのが合理的なのか」について考えてみたいと思う。

高度成長期と現在(いま)

「既存の成功ルールはもはや通用しない時代である!」とはよく言われることだが、果たしてどういう事なのだろう。過去と現在を比べ日本が置かれている状況の違いを整理してみよう。

>「客数 × 客単価」

あるビジネスの売り上げについて考えるときに使う上記の公式。この公式で日本経済を理解するならば、前者はものを買う人の人数なので「人口」、後者は一人あたりいくら使うかということなので「景気」をあてはめてみると理解しやすい。その昔、日本という国は人口の増加・経済の成長と共にあった。両方の変数が増加トレンドの中にあるということなので、ビジネスで考えるならばマーケット拡大期。人口が減少に転じてからの日本はもちろんマーケット縮小期にある。

ビジネスにおいては、当然のことながらマーケットの拡大期と縮小期で取るべき戦略は変わってくる。では、具体的にこれまでの(拡大期にあった)日本を支えてきた戦略とはいかなるものであったのか。また、その代表例を見るとともにそれが(縮小期にある)現代にも通用するものなのかについても考えてみよう。

一業種多社構造

日本の産業構造を考える際に特徴的なのが、この一業種多社構造。自動車や家電などのエレクトロニクス産業において特に顕著だ。マーケットが拡大傾向にあり、ある程度みんなが欲しがるものが共通していた時代においては、この超競争的な環境が日本にとって有利に働き、特にリバースエンジニアリング(他社製品を解体してその仕組を理解し、真似る)等の手法によってありえないほどのスピード感を持って成長することができた。どれだけ競争的な環境にあっても成長市場がそれをまかない、モノはつくればつくるほど売れた。また、エレクトロニクス産業自体のライフサイクルが成長期だったことも相俟り、日本はこの分野で世界中から尊敬されるような商品を多数作り上げ、世界中にそれを売った。

しかし現在はどうだろう。マーケットは縮小傾向に転じ、産業自体も成熟。先進国においては利便性が幸せに直結するような時代でなくなってしまったことも大きく、便利なモノをつくればつくるほど売れる時代ではなくなってしまった。そんな時代においてこの超競争的な産業構造はどう働くのか。売れない時代に競争をすると、当然各社は価格競争をせざるを得なくなり消耗戦を余儀なくされる。このような局面では一業種多社構造はマイナスに働くのだ。そこで、このような競争から脱し、カタログスペック以外の体験価値・ブランド価値で勝負し成功した代表例がApple社である。

国内市場優先

利益とは「売上 - 費用」で表すことができる。 上記が日本企業の「売上」の優位性を奪っていった話だとしたら、こちらは「費用」の優位性を奪うお話。グローバル化以前、日本が海外諸国に対してコスト優位を築く方法は、日本市場でドカーンと売ってコストの低下を図り、そこから世界に売り出すというものだった。モノはより多くつくり、より多く売るほど一つあたりの製造・販売コストが下がるが、日本市場自体が大きくグローバル化が進んでいなかった時代は、日本でスケールした時点で世界に対してコスト優位性を持つことができた。しかし現在はどこの企業もはじめから世界で売ることを念頭に置くようになった。国内市場が大きいということ自体の強みは、もはや薄い。

また、既に常識となっているような話なので割愛するけども、世界中で作って世界中で売ることが可能になった時代においては、より生産コストの低い国でものづくりを行う企業の方が強い。日本は世界的に見ても物価が高い国であるため、いかに技術力が高くてもハイスペックで高価なものを世界中に売るというのはななかなか難しい。グローバル化の時代においてコスト優位性を築きあげて成功した代表例はアジア圏を中心に枚挙に暇がない。

終身雇用と年功序列賃金

今度は企業統治のお話。モノをつくればつくるだけ売れた時代についてもう一度整理してみよう。国内市場は既に大きく、且つ成長軌道にあった。また、マーケットのニーズはだいたい似通っており、人々の利便性は幸せに直結していた。こういう状況においてはある程度やるべきことが明確であり、モノを早く多く正確につくることが成功の鍵だった。言い換えれば、「生産性」とは「モノをより速く多く正確につくる力」であった。そこで発揮されるのは決められたことを迅速にこなすスキルだ。このスキルは基本的に職務年数と高いレベルで相関する。10年働けば、5年働いた人よりも、多くの場合生産性が高いのだ。すなわち、うまいこと長く務めるインセンティブ設計をし、新卒一括採用によって若いうちから年月をかけて育てることが最も合理的だった。事実、その日本的経営は当時世界中から賞賛されていた。

現在はどうか。マーケットニーズの多様化に従属して、求められる能力(=「生産性」の定義)もより多様化・高度化・複雑化してきている。そんな時代においては職務年数と生産性が相関するはずもなく、終身雇用や年功序列賃金といった制度・慣行が持つ優位性も薄れてきている。

教育制度

求められる能力、生産性の定義が変わったならば教育のあり方も変わるべきだろう。孫正義は「産業革命によって教育は変わったが、情報革命後の教育は変わっていない」と主張した。その通り、教育によって身につけるべき能力は時代によって変わるべきものだ。例えば、その昔欧米列強に追いつき追い越すためには、最先端の知識をインプットすることが成功の鍵だったことだろう。だから日本の英語教育はインプットに比重が置かれているが、今の時代により重要なのはアウトプット力だという主張がある。また、ある程度明確な問いがあった時代にはそこに向かって解の質を高めることが成功の鍵だった。だから日本の受験勉強は定められた正解にたどり着くプロセスに比重が置かれているが、今の時代に重要なのは質の高い問いを立てることだ。集団行動における協調性や受験競争を勝ち抜くための勤勉さも、まさにかつて日本が置かれていた状況において必要とされたものに過ぎない。

このように「優秀さ」とは時代によって規定されるべきものだ。現在の教育システムの中で競争を勝ち抜いてきた人たちは、確かにかつてものすごく「優秀」だったのだろう。しかし、その優秀さは、現代でも活きるものなのかというと疑わしい。

世代で共有しているノリや空気感

最後にちょっと違う角度からの話。高度成長期を体験し、勝ち抜いてきたおじさんたちと話す時にそのパワフルさに驚いたことはないだろうか。君が話したのは、目の前に成長物語がある時代、酸いも甘いも嗅ぎ分けて成長を追求してきた人だ。より頑張って働けば出世するし収入も増える。その過程で企業も成長し、国も富んでいく...そんな成長物語。一方僕らの世代は共有できる成長物語を持たない。だから、どうにもあの謎のパワフルさを理解出来ないというのも無理はないだろう。

共有できる物語がない今、僕らはそれを各自で調達しなくてはけない時代を生きている。魅力的な物語なんてどこにあるのだろう? わからない、辛い、もがくしかない。それが日本が抱える閉塞感の一つの正体でもある。そうなると僕らは、企業や国の成長よりも、身近な人々との繋がりの強度や体験の濃密さを求めるようになる。社会学者・宮台真司はそんな話をして「意味から強度へ」というフレーズで時代が抱える空気感の変化を表現した。そう。僕らは昔流行ったマンガやアニメに出てくるような社会的使命を帯びて闘う正義のヒーローになることよりも、小さいながらも濃密なほのぼのまったり日常を生きることを望むのだ。この話は、現代において「けいおん!」や「らき☆すた」といった日常系物語が流行したことと無関係ではないかもしれない。

僕らが置かれている状況

経済学的側面から見ても社会学的側面から見ても、こんな変化はあげればキリがない。とにかく僕らが置かれている状況は今の大人たちがかつて経験してきたそれとは大きく違う。それでも成長・成功したい僕らにとって、良い大学に行くことや人気の大企業に就職することは本当に合理的だろうか。その先に幸せはあるのだろうか。今僕らが置かれている状況について直視し、旧来的な価値観をしっかり疑ってみる必要がありそうなのは間違いない。

僕は、少なくともこれまでの成功ルールの軌道を歩んでいく先には、僕ら自身の幸せはもとより日本の未来はないと思っている。僕らは僕らの道で、新しい国創りをはじめないといけない時がきているのだ。最後に一つだけ気を吐こう。

僕らは、戦後初めて自らの成功を時代に規定されない時代を生きている。自分の生き方を自分で決められる、最高の時代を。

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